頤和園 (北京)

イーホーユエン颐和园

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西太后も愛した北京で最大規模の皇室庭園、今でも世界遺産として人々を魅了中!

北京市内から約12km北西に位置する 「頤和園」 は、敷地面積約290万ヘクタールという北京でも最大規模の皇室庭園です。1998年に世界文化遺産に指定された庭園内には、南手にゆったりと広がる昆明湖、その北に立ち並ぶ美しい楼閣、回廊、仏教建築など100ほどの建築物で構成されているんですが、その風光明媚な世界はまさに 「筆舌に尽きる」 の一言!
清代の繁栄期である乾隆年間 (1736~1795年) に創建された庭園は、アロー号事件 (第2次アヘン戦争) の際、英仏連合軍により徹底的な破壊を受けました。その後、この庭園を愛した西太后 (1835~1908) が莫大な資金を投じて再建したのですが、この際に軍事費を流用したため日清戦争に敗れたという話も有名なんですよ。

~では、期待を胸に秘めつつ入り口へ~

頤和園への入り口は東、北、西と三ヶ所ありますが、今回は東側から入って昆明湖湖畔に広がる見所を見学し、北に抜けるルートを取ります。
東宮門の中へ入ると、その先にある 「仁寿殿」 へ続く門が見えます。東宮門の周辺もそうでしたが、この辺りには個人旅行客を捕まえようと、商売熱心な中国人ガイドが次々と声をかけて来ます。
「頤和園はめちゃくちゃ広いんだから! ガイド無しじゃ迷子になるよ!」
大人ならまず迷子にはならないと思いますが、それくらい覚悟が必要な広さの様子。

~1. 東宮門から 「仁寿殿」、「玉瀾堂」 まで~

「仁寿殿」に入ると何やら皆さん、巨大な石の周りで記念撮影をしています。この石の何が有名なんだろう?
説明書きには、
“寿星 (老人星とも言い、南極星の別名) のような形なので寿星石と呼ばれている。 
光緒12(1886)年、現在の北京大学の敷地内から運ばれてきたもの“
とありました。
しかし、南極星の形そのものがよく分からないナビには有難みも掴みがたし…。
★仁寿殿(レンショウディエン)
その奥に見えるのが、清代末に権力を振るった西太后が外交や内務を行った 「仁寿殿」 です。元は 「勤政殿」 と呼ばれ、大臣たちが政務を執っていた場所でしたが、1886年に再建された際、『論語』 に記された “仁者寿 (知の上にさらに仁を備えている者は、全てに安じてあくせくしないので長生きする) ” の意味を取って 「仁寿殿」 と改名されました。
建物前には中の様子を見ようと多くの観光客が集まっています。シンプルな構造ですが、威厳の感じられる装飾が施されています。殿内の中央に見える玉座は西太后が使ったもの。
「仁寿殿」を抜けると、昆明湖の手前右手に何やら入り口が見えます。外から見ると一見地味な門ですが、中はどうなっているんでしょう?
★玉瀾堂(ユーランタン)
中に入ると典型的な四合院造りの建築物が広がります。この建物は連合軍により破壊された後、光緒帝 (1875~1908) が再建し、寝室として使用していた場所なんです。
しかし、西太后の失脚を狙った戊戌の政変 (1898年) に失敗した光緒帝は、西太后から政権を取り上げられこの場所に幽閉されました。そのため、玉瀾堂には未だにレンガで塞がれた門が残っているんですよ。
夏にはここ 「玉瀾堂」、そして冬には中南海にある 「瀛台」 に10年にも渡り軟禁され続けた光緒帝。室内に見える家具は、全て当時使われていたものだそうです。
今はこんなに人が集まる四合院ですが、当時はどうだったんだろうか?などと想像すると、どことなくうら寂しい空気すら感じる 「玉瀾堂」 です。
西太后も、噂には聞いていましたが筋金入りの権力者ですね。
ちなみに、西太后は自分の死の前日に光緒帝を毒殺させた、とも言われています。

~2. 昆明湖の美観を楽しみ、「楽寿堂」 へ~

先ほどの 「玉瀾堂」 を後に、観光客たちはこの素晴らしい昆明湖の景色に感激の様子。
★昆明湖のパノラマ写真をご覧あれ♪
本日は快晴とならず霞がかった空模様ですが、このゆったり広がる景色と共に暫し心も休まる思いです。この位置から左手方向の湖面には 「南湖島」 や 「廊如亭」、湖を見守る 「銅牛」 などの見所もあるんですよ。
暖かい季節には、この湖で遊覧船に乗るのも良さそうですね。
ここから北へと、湖畔に続く細道を歩きます。
建物のここそこに、清代の名残りと言いますか、日本でいうところの “侘び寂び(ちょっとこれには当てはまらぬか?)” のようなシブさを感じる細道です。
なぜか、途中で“皇室の電話資料館”なるものが出現。この資料館はなんだか “後づけ”だなぁ、と言うか 「なるほど、観光地だからな…」 と思いましたが、中には愛新覚羅溥儀が使ったという電話(の複製)もありました。
このまま行くと 「楽寿堂」 の門まで行ってしまうのですが、その途中にあるはずの 「徳和園」 に行きたい!ということで、標識を頼りに違う方向へ。建物が入り組んでいるので、地図通りに見て回るにも少しコツが必要みたい。
湖畔の細道からそれ、建物内部を引き返すとどうやら「徳和園」らしい入り口に到着しました。ちょっと、ここを見てみるのが楽しみだったんですよね♪
★徳和園(ダーホーユェン)
こちら 「徳和園」 内にある 「大戯楼」 は清代3大戯楼の1つであり、現存するものとしては最大規模の京劇舞台なんです。西太后はここで京劇を観るのが本当に大好きだったそうで、常に特等席をキープしていたんだとか(当たり前?)。
こんな建物で演じられる京劇は、さぞ見事なものだったんでしょうね。
今でも午前中から若い男の子たちが楼内を掃除し、綺麗に保たれている様子でした。
さて、お次は先ほど目前にして引き返した「楽寿堂」へと向かいます。
★楽寿堂(ラーショウタン)
ここは、西太后が生活をした場所で、正面に構える建物が寝室だったところです。中には今でも優雅に装飾された西太后の玉座などが残されているんですよ。
堂外の両側には銅製の梅花鹿や仙鶴と大瓶などが並び、庭にはモクセイやカイドウ、牡丹などの花木が植えられています。
それにしても、この鹿の像の不自然な体勢は 「なんで?」 と言わずにおれません。
裏庭に出てみました。西太后も天気の良い日にはこの庭に出て、色々な想いに耽ったりしたのかしら?人の暮らした場所に入ると、そういう空想が頭に巡ります。
と、まだ先は長いのでサクサクと、お次はコチラもまた楽しみにしていた「長廊」へ向かいます!

~3. 園内で最も有名な見所の1つ、「長廊」へ~

この 「長廊」 とは読んで字の如く、全長728mととても長い廊下でして、梁に施された装飾がとても見事なんだそうです。さて、実物はいかに?!
★長廊(チャンラン)
ウーン、長い、そして遠いです!左手に昆明湖を望みながらゆったり歩くと、本当に心が癒される気分です。
まあ、暫くすると 「まだ続くの?!」 という気持ちへと俗世帰りするかもしれませんが、この庭園内でも“雅”な気分に浸れるスポットの1つです。
「長廊」 の途中に登場する 「排雲殿」 へと続く門に到着しました。この北側には頤和園を代表する高さ58.9mの万寿山があるんです。湖畔にあるこの 「排雲門」 から素晴らしい建築群の山登りがスタートしますよ!
門の背後に佛香閣を控え、観光写真を取るツアー客の皆さんです。きっとバッチリいい感じで撮れたに違いない!
先ほどの門から北に 「二宮門」、「排雲殿」、さらにそこから階段を上って行くと 「徳輝殿」、「仏香閣」 に到ります。そして 「仏香閣」 の北側にある 「智慧海」 までがこの一連の建築群の最後の部分で、これらが頤和園の中心的建築群とも言われています。
まずは 「排雲閣」 に到着しました。この建物は清の光緒12年 (1886年)、西太后の誕生を祝うため、清国海軍の経費 (白銀) を流用して再建したものだそう。殿中央にある玉座にはかつて西太后が座り、殿内東側には1905年に描かれた西太后の肖像画も掲げられています。
人の流れに着いていくと、上へと続く階段がありました。 人の流れに着いていくと、上へと続く階段がありました。

人の流れに着いていくと、上へと続く階段がありました。

この極彩色の世界に取り憑かれたような気持ちで上へ、上へと歩みを進めますが、階段が終わって欲しくないような気すらするような見事な異空間です。
階段を上ると広がるのはこの景色。今はちょうど 「仏香閣」 へと再び上る一歩手前の所まで来ています。
ここまで来ると体力的にも少し疲れた頃合いなんですが、「仏香閣」 へ上がるにはこれまた急な階段を上がらなくてはならないんです。
ほら、こんな階段が待ってますよ~。
頂上に建つ仏香閣は、高さ41メートル、8角形3階建ての塔で、頤和園のシンボルの1つともされる建物です。晴れ渡った日なら、ここから頤和園全体の景色が一望できるんですよ。また、周囲には木造建築を模してつくられた銅製の寺 「宝雲閣」 の姿も伺えます。
「仏香閣」 内には、明代に鋳造された 「千手千眼観世音菩薩銅像」 が安置されています

「仏香閣」 北側には 「後山」 と呼ばれるチベット仏教寺院の傑作・サムイェ寺を模した建築群もあります。これは漢族とチベット族の建築様式を融合させたもので、鮮やかな色彩が印象的。清の咸豊10 (1860) 年、中国を侵略した英仏連合軍によりほとんど焼き払われてしまいますが、近年の大規模な修復工事により現在の姿へと戻りました。

先ほどの階段は、降りる時の方がさらにコワいので気をつけましょう!
また、湖畔にある門の前まで戻ってきました。さて、ここまで来ると主要な見所も残り少なくなった気がしますが、有名な“石の船”の事をすっかり忘れていました。
先ほどの長廊へとまた戻り、さらに西の終点まで歩きましょう。
★清晏舫<石舫>(チンイェンファン)
こちらはガイドブックでも必ず見かける全長36m、白い石で築き上げられた 「石舫(シーファン)」 です。清代に乾隆帝が造った際には中国式の楼閣が乗った船だったそうですが、英仏連合軍により破壊された後、西太后が洋風デザインの屋根を付けたんだそう。
この妙な佇まいの “妙な理由” が解らなかった、なるほどこの屋屋根のせいか! …と1人納得。
昆明湖の南手にもまだまだ見所はありますが、多くの観光客が主に見てまわるのはこの湖北岸エリア。夏季のみ、先ほどの石舫や排雲殿から湖に浮かぶ南湖島への渡し船 (10元) が出ているそうですよ。

~4. 北門へ向かいつつ、「蘇州街」 も覗いてみましょう~

頤和園の中にある景点を100%網羅した訳ではありませんが、主要ポイントや気になっていたところはだいたい見尽くしたので、これから北にある出口 (北門) へと向かいます。
でも、北門までも結構、距離ありそうだわ~。
北門へ向かう途中、おもむろに登場したのがこの 「宿雲檐城関」。もとは乾隆年間 (1736~1795年) に建てられたものですが、1860年に英仏連合軍によって一度破壊されました。「頤和園」 が修復される際、ここも現在の姿へと戻ったそうです。
ここから北門へは、このなだらか~な階段道がほんのすこし続きます。
結構歩いた後の、なだらか~な上り階段って、結構疲れます。
いろんな場所に階段が見えて脇道がありそうなんですが、脇道を楽しむ心 (足) の余裕は残念ながらアンマリ残ってないかな (本音)。

しばらくは、緑地公園の中を散歩しているような感じの道が続きます。
中国で幸運のシンボル、カササギもいっぱいです。
可愛いんですが、大量にいるので落下するフンにも少々お気を付けください♪
森の中にはこんな建築群もあるんです。ここも何やら気になりますね~!
★「蘇州街」 は、ちょっと枯れていました
さて、昔ここで乾隆帝がオモチャのお金を使って、お買い物ごっこを楽しんだという 「蘇州街」 に到着した様子です…!
しかし、何かが “東洋のベニス” な蘇州と違~うような!
よく見ると、河に水が流れていないんですね。
季節性のものなのか、すっかり水が枯れてしまったのか定かではありませんが。
なんとなく、ヒュ~ルリぃ~…っと、もの寂しい空気が。

それにしても、お買い物ごっこって…(笑)。
英仏連合軍の焼き討ちで廃墟となっていましたが、近年一部が復元され、現在では清朝の装いをした売り子が立つみやげ物店が並んでいます。

~これにて北の出口からサヨウナラ!~

そう言えば、「長廊」 は “世界1長い廊下” としてギネスブックにも登録されているそうなんです。世界遺産にギネスにと2つも世界の勲章を持つ 「頤和園」 は、実際に体験してみるとやはりそれに値するスケールを持つ庭園でした!
しかし、それもそのはず。
「頤和園」 は中国の皇室庭園の特徴とも言える、「全てのものは皇帝のもの」 という理念も現している場所なんですから!だから、この場所には天下の美しい景色、水や山の自然美全てがギュっと凝縮され、もの凄い完成度の高さを見せているんです。
次にまた来ることがあれば、絶対に船で 「昆明湖」 へと繰り出すぞ!
「頤和園」 よ、また会おう!


記事登録日:2007-12-10

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上記の記事は取材時点の情報を元に作成しています。スポット(お店)の都合や現地事情により、現在とは記事の内容が異なる可能性がありますので、ご了承ください。

スポット登録日:2007-12-10

利用日
女性 男性